2010年3月 1日
本草学
秦漢以後、六朝にかけて、神仙思想が発達して方術が盛んになると、神仙家の薬と医家の薬とを区分する必要性が生まれた。その頃に、方術の薬を指すものとして、「本草」という用語が生まれたとされる。その意は、「草石の性に本づくもの」であるという。よって、単に薬草のみを指して本草という訳ではない。「本草」の語の文献上の初見は、『漢書』「郊祀志」であり、紀元前31年に方士ら神仙を説く者たちと共に、本草待詔を免職にしたという記事が見える。但し、『漢書』「芸文志」には、「本草」という名を持つ書名は見られない。
梁の陶弘景(456年-536年)は、『神農本草経』に補注を加えて、730種の薬名を記録し、本草学の基礎を築いた。後、659年になって『新修本草』が勅撰され、陶弘景の書に修改が加えられた。宋代には、974年に『開宝本草』、1060年に『嘉祐補註本草』(掌禹錫)、1061年に『図経本草』(蘇頌)が成立した。また、唐慎微は1082年に、掌氏と蘇氏の2書を合揉して『証類本草』を撰し、処方を加えた。1108年の『大観本草』は唐氏の書に『重広本草』(1092年、陳承)の説を補足した。さらに1116年の『政和本草』では、『大観本草』の図を縮微して利用の便を図った。また同年には、『本草衍義』が成立している。1159年の『紹興本草』は、『本草衍義』と同様、実用性を重視して編纂された。
明代の1596年に李時珍が著わした『本草綱目』は、本草学の集大成であり、1871種の薬種を収録している。日本の本草学(博物学)にも大きな影響を与えた。
中薬および漢方薬
中国においては、中国伝統の医学を「中医学」と呼び、中国伝統の薬を「中薬」と呼んでいる。これらが日本に伝わり、そこにさらに日本側の解釈も加わったものが「漢方医学」および「漢方薬」である。
中薬の用い方、組み合わせ方は「処方」と呼ばれる。基本的に中薬の処方は複数の生薬を配合するという特徴があり、単一の生薬が用いられることはほとんどない。(例えば、「葛根湯(かっこんとう)」というのは、単一の生薬ではなく、葛根(くず)、麻黄(まおう)および桂枝(ケイ)・芍薬(シャクヤク)・生姜(しょうが)・大棗(ナツメ)・甘草(カンゾウ類)が組み合わされたものである。)
中医学の湯液(煎剤)治療の分野においては、3世紀ごろの『傷寒雑病論』があり、これは張仲景によって著わされたと言われているが、この書が二つに分割・編集され、『傷寒論』および『金匱要略』が生まれたという。この『傷寒論』および『金匱要略』はこの分野における重要書とされている。『傷寒論』では、急性の発熱性の病気の場合に、刻々と変化する症状に応じて薬を使い分ける方法が説明されている。『金匱要略』では、病名および症状ごとに、それに対応した処方を説明している。
『傷寒論』や『金匱要略』に記述されている処方は「古方」と呼ばれ、それより後の時代に作られた処方は「後世方」と呼ばれている。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
本草学が発展した理由について勉強になりました。
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